イギリスとフランスの戦争
ウィリアム1世がイングランドを統一後、その王権は安定し反映していきました。1154年にヘンリー2世の代になると、イングランドに加えてフランス国土の2/3を支配するようになります。ヘンリー2世の在位は35年ですが、イギリスに居たのは15年程で、大半はフランスで過ごしていたようです。そうなると、英語という言葉の地位がフランス語に比べて、低くなっていきます。支配層側がノルマン人になったことで、イギリスの公用語は英語からフランス語に改められ、上流階級の用いる英語は話す時も読み書きもフランス語一色に染まりました。
そして、ヘンリー2世の息子のジョン王の時代になると、ある事件が起きます。ある日、ジョン王がとあるフランスの屋敷を訪れると、たまたま居合わせたイザベラという少女に恋に落ちてしまいます。イザベラを見初めたジョン王は求婚を申し込みますが、イザベラにはすでにリュジーニャンという貴族の婚約者がおり、断ります。それでも諦められないジョン王は力づくで無理やり結婚まで事を運んでしまうのです(イザベラ可哀そう)。当然、婚約者を奪われたリュジーニャンは怒り、フランス王に言いつけ、フランス王は、兵を挙げて、ジョン王の受けもっているフランス領に侵攻。この戦いに敗れたジョン王は、フランス領もさることながら、ノルマンディーも失ってしまい、イングランドだけの王になり果ててしまいました。これを「1204年の事件」と呼ぶのですが、1人の女性を奪われたことで、領土が変わってしまうほどの戦いになるのですから、愛のパワーは強大です。しかしこの「1204年の事件」は図らずもイギリスにとってプラスに働き始めます。今まで、なんとなくイギリスとフランスが曖昧に溶け合っていたのが、明確にイギリスとフランスに国家が分裂したことで、イギリスに住んでいた人たちの”イギリス人”としてのアイデンティが芽生えたのです。つまり英語を母語として捉える意識づけになったのですね。
また、フランス領を奪われてしまったジョン王側は、その後進世代になってもしこりが残っているわけで、フランス王との領地争いは1337年から1453年まで続き、100年を超える戦争状況になります。これを「100年戦争」と呼びます。100年戦争において当初、イギリスはフランスに対し連戦連勝、このままフランス国土を征服するかと思いましたが、かの有名なジャンヌダルクがフランス王側に救世主として登場し、イギリス側はフランスに負けてしまいます。負けたことで、島国であったイギリスの地理的状況も手伝い、イギリスの国土は傷付けられることはなく、フランスから独立した国家観に成りえました。こうして、敵国であるフランスの言葉ではなく、英語がイギリス国内で市民権を得るようになるのです。

ペスト(黒死病)の流行・印刷発明と英語の復権
英語が市民権を得るようになったのには、100年戦争(1337年~1453年)によるイギリスとフランスの分断以外にもう一つ理由があります。1350年頃から流行したペストです。皮膚が黒くなってなくなる為、黒死病とも呼ばれました。ペストは、当時のヨーロッパの人口の3分の1が命を落とすようになり、極端な労働力不足に陥ります。

そうなると、相対的に農民などの労働者の地位があがり、庶民の言葉である英語に光が当たるようになります。つまりペスト流行前は、フランス語を話す貴族が、英語しか話せない庶民を「働かせてあげている」という構図だったのに、流行後は「働いてもらっている」という認識に変わり、英語の教育も普及、識字率の向上、延いてはイギリス人の地位の確立に至るわけです。こうして、地方自治体の担い手も土着のイギリス人へと移り変わり、立法や司法の場でも英語が使われるようになりました。そして、1489年の議会においてもフランス語を使わないように改められます。ノルマン人が用いるフランス語によって、隅に追いやられていた英語ですが、初代イングランド国王のウィリアム1世の戴冠がおよそ400年がたった1500年頃、ようやくイギリスの母語として英語が復権するようになるわけです。
また、印刷技術の普及も英語の繁栄に大きな貢献をしています。印刷技術は1439年にドイツ人のヨハネスグーテンベルグによって発明され、それまでの手で文字を書く重労働が、印刷技術により超スピードで完結し、英語が一気に全国に拡がるきっかけとなったのです(1時間で240枚印刷できるようになったとか)。そうなると、多様な方言が取りまとめられ、綴り字が標準化されていきます。以下の写真は、1456年にグーテンベルクが印刷した聖書の一部です。活字は299種により構成され、現代の英語に近づいていることが見て取れますね。

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